教育虐待という言葉の出現

教育システムの破綻がついにこのような言葉を生み出したと思います。

親が子どものためにと教育競争のレールに乗せたあと、その親子関係がそのシステムの中で、                   どのような人間が育っていくのかを見ていく必要があるのです。

戦後社会の教育問題のシステムの崩壊が最終章に向かって行かないことを願いながら、                          私の思いを綴ってみたくなりました。

団塊の世代は受験競争を体験した世代であり、それが学歴主義と結びつき受験戦争にまで進展していく時代がずっと続いてきた中で、子ども達のSOSが様々な形で問題行動を起こすことになっていきました。

子どもを教育するということは大事なのですが、競育から狂育に向かってしまった社会状況があります。

大きな流れに乗って流されてその流れを楽しんでいけて、大海原に放り出されてそれをも楽しめる人間に育つ人はいいでしょう。

苦しみながらその流れの中で泳ぎ方を必死に探し求めながら、ようやく自分の泳ぎ方を見つけられた人間はそれもよくぞ育ったと思います。

ですが、流されながら不安に思いそれでも流され続けてついに溺れて苦しむ人間になるとしたら・・・

溺れて苦しんでもなお他の道がわからず流されるままの人間だったとしたら・・・

教育システムは高度成長の時までは確かにうまくいったと大人たちは思ったはずです。

しかしシステムは永久ではなく、サイクルがあるということに思いが至らなかったことの長年のつけが今の日本社会に押し寄せていると私は思っています。

だからこそ、まずは社会が悪いというだけではなくそんな社会に生きていく中でどのように教育を考えるかを、個人からしっかり考え直す時が来たということではないかと思います。

 

 

5 件のコメント

  • みっこさん。 教育システムという言葉に問題を感じませんか?
    人を育てる事はシステムではなく育む行為ですね。
    教育を社会の問題と位置付ける必要もあるでしょうが、政治・経済だけで問題視できません。
    もちろん現実の問題は政治・経済によるところが大きいですが、虐待に関しては 命の問題や人権の意識の薄さに端を発して居ると思われます。世界いで虐待の法律が整備される中、日本ではやっと気付いたところです。
    問題を上から見る視点も大切ですが、下から見る視点も必要かと。
    戦後教育は確かに問題を多く孕んでいます。 今からでも検証して基本的人権からの視点で考えてみたいですね。

    • 私は近代化の中において教育はシステム化されたいったのだという思いを持つのです。
      本来ならシステム化なんて考えられないのが教育なんですから。
      それは国民がシステム化したわけではないですよね。
      国が行うわけですから、その国が民主主義国であるはずの日本で教育虐待という言葉が生まれたということで
      私は子どものためにという名の裏側にある親の問題を気付かなければいけないということを言いたいのです。
      虐待は命に向き合うことを国民が意識させられていると思っています。
      この問題は流され続けてきましたからね。

  • 人間はある程度の方程式の中に当てはめれば、
    ある一定の能力を持つ。
    そんな、近未来のSFサスペンス映画にも思えてしまいます。
    子どもにさせておくべき習い事や、
    子どもに習得させておくべき技能や知識、
    そんなことばかりが母親を始め子どもの保護者に渦巻いたら、危険すら覚えます。
    僕の生まれてきた意味は何か。私の生きる道はどこか。
    そんなことに迷う子どもが、もっともっと増えそうで。
    子どもに、どんな人生を歩ませたいかではなく、
    子どもが、どんな世の中で育ったら幸せか。
    大人たちが、考える道を誤りませんように。

    • あれもこれも・・・と情報化の洪水の中で溺れそうな親子も出てくるんだろうなと思います。
      だからこそ私は子どもが育つには順番があって、それは人間の土台作りを間違わないでねと言いたいのです。
      産まれ落ちて1年間は親からの無条件の愛を与える事で、愛着関係ができるということ。
      それは親子の信頼関係の始まりであり、好奇心が芽生えて次々に生きていく世界の探索行動へと発展していき
      親との言葉のやり取りによって物には名前がついているなどを知り・・・と発達をしていくわけで、好奇心の芽を摘まないように
      見守る待ちの姿勢が必要で、それが満たされてこそ子どもは広い世界に更なる興味を持つようになるんですからね。
      発達順序には準備期間(レディネス)を無視していくことが子どもをスポイルするのだということを知ってほしいのです。
      優さんはご存知だと思うのですが、子どもがまだその時期ではないのに先取りしていくことの問題ですね。

  • 教育と虐待は無縁では有りません。
    戦前の教育が何の批判もされずに 躾と同義語になってしまいました。
    若かりし頃、熱血先生がもてはやされ 青春ドラマが流行りました。
    今流行りの「ボ〜ッと生きてんじゃないよ!」も5歳の少女が設定ですが、子どもはボ〜ッとして居るものです。
    大人もそんな時間が必要なのです。 必要な時間にボ〜ッとしているのは良いのでしょうが、大切な時間にされては時間の無駄。
    集中して欲しい、するべき時にできない時にイライラして罵詈雑言や暴力となるのでしょうか。
    世界全体が暴力を規制するのは、人権を守るためです。
    発達段階での暴力が助長する事も考えられます。どちらもを知って、自らをコントロール出来る人間を育てたいものです。
    保育園が教育機関と言えるのかは問題ですが、少なくとも 集団の中でこそ早いうちに自己をコントロールし、他者と自分の人権に配慮出来る場であって欲しいものです。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    池田美智子

    読書が好き、人間が好き、孤独も大事、真善美を考える日々。 旅をすると予習復習で楽しさががらりと変わることを実感し、 60代後半になると、努力することの必要性を実感し、 やる気元気の素を探すようになりました。 今のところその素は、お母さん大学とコーラスです。