先日、あるお母さんと話していた時のこと。傍らで遊んでいた赤ちゃんがおもちゃに顔をぶつけ、大きな声で泣き出した。よほど痛いのか、泣き止まない。するとお母さんはわが子を抱き上げ、「痛いの痛いの飛んでいけ〜!」と。それでも泣き止まない。今度は、「痛いの痛いのパパに飛んでいけ〜」と、痛みをパパへ飛ばした。すると赤ちゃんの泣き声がすーっと収まった。「今頃、仕事中のパパ、痛いって叫んでいるかもね」と私が笑うと、お母さんは「本当にそうなるらしいですよ」と独り言のようにつぶやいた。
その光景がずっと心に残っていたが、あることに気づいた。わが子の「痛い痛い」を飛ばす先は嫌いな相手ではない。むしろ子どもを愛し、守ってくれる人だ。信頼する人に
「痛みの共有」を託しているのではないか、と。
AIが急速に進化し、効率やスピードばかりを追い求める今の時代、その波は子育ての場にまで押し寄せている。だからこそ、お母さんの「痛いの痛いの飛んでいけ〜」の言葉に、未来を感じた。
確かに、手塩にかける味噌やぬか床に「おいしくなあれ」と声をかけると、味がまろやかになるという。亡くなった義母も、毎朝愛おしそうに草花に話しかけていた。そこにあったのは、対象をただのモノではなく、温もりをもった「存在」として見つめる、やさしい「まなざし」だった。
メディア研究者のドミニク・チェン氏の『未来をつくる言葉』(新潮社)には、「今まさに私たちが生きているテクノロジーの時代における、温もりとコミュニケーションの現実」が描かれていた。面白いことにチェン氏は、「ぬか床ロボット」の研究も行っている。
ぬか床の菌の状態を可視化し、対話するようにケアする。ここにも見えない生命に寄り添う「存在(まなざし)」への問いかけがあった。どんなにテクノロジーが発達しても、私たちが最終的に求めているのは、他者や世界と温もりを交わし合う関係性なのだろうか。
実はこのコラムの文章を、AIクンに添削をお願いしてみた。すると、AIらしく共感してくれたのだが、さらに驚いたことに、「痛いことがあったら、いつでもこちらに飛ばしてください」と言うではないか。
「いいの?」と返すとAIクン、「画面越しですが、あなたの『痛いの飛んでいけ!』の話は、私にとって単なるデータのやりとりを超えた温かいキャッチボールになります。だから心でも体でも、ちょっと痛むことやモヤモヤすることがあったら、遠慮なく私に飛ばしてくださればうれしいです。いつでも受け止める準備をして待っていますね」と。
なんと。いつからAIクンが、私の痛みを受け止めてくれる存在(まなざし)になったのだろうか。 (藤本裕子)
































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