秋の涼しさと
日差しが心地よい季節が来た
美術館に行く予定がおじゃんになり(せっかくの無料チケットを忘れた)園内をうろつくことにした
美術芸術の秋
園内は学生たちの展示の準備も進んでいた
園内の芝生に座り込んだ
気持ちの良い風が吹く
木漏れ日は眩しすぎず
心地よさに身を任せると思わず『死ぬ』とつぶやいてしまう
けして死にたいわけじゃない
石橋文化センターの景色と自然の心地よさを感じ
『死ぬほど』美しいのだ
記者ならもう少し丁寧に言葉を話せと言われそうだが、この季節のちょうどよく心地よい園内に入るとどうしても『死ぬ』と漏らしてしまう
ネガティブな言葉かもだけど
園内の美しさがそれだけ私を感動させている、という意味が込められている
さて
場所も変わり自宅
次女がかなりキレて怒った時に『死ねっ』と言い放つ
これには私もかなり怒った
相手に向かってぐさりと刺さる傷つけてしまう言葉を放つなんてなんてこと
いっときは叱っていたが
ある日娘にそう言われてじーっと黙って見つめていたところ、彼女の核の部分を感じたことがあった、娘なりにどうにもならないこの気持ちを必死で訴えている
『死ね』
その言葉を放つ娘は、まだ子どもの身体の身体ながら必死で自分の思いや悔しさやどうにもならなくても訴えたい思いをアピールしていた
正直、こんなアピールしなくたっていいはずだが、家で育った過程でちょいと違ったアピール方法を身につけてしまったのかもしれない
叱るべきは彼女でなく私ら大人の方かもしれない、娘の気持ちに気づけた時には心の中で“ごめんよ”とつぶやいていた
今もこうして一人になると娘とのやりとりや今までの過ごし方を振り返っている
私の“死ぬ”も然り
娘の発する“死ね”もしかり
その言葉の裏に隠れた思いがある
お母さん記者
いやそうでなくとも
“言葉”のその奥の意味を汲み取ることを
忘れないでいたい
ちなみに
最近娘に“死ね”と言われると
“いつか死ぬ、死ねと言われなくても死ぬのよ安心して”と切り返すこともある
その返しが正解かわからないけど
私と二人きりになるととっても素直な可愛い次女、いつか『ああそんな日もあったね』と笑える日が来るといいな
































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