私は、自分が通っていた中学校区の保母町。嫁ぎ先である豊田市の挙母町を選んで調べてみました。
■ 保母町 ― 母と子への祈りが息づく場所
岡崎市の保母町の由来は、「胎蔵寺」という寺院の山号である「保母山」
その背景にある哀しくも深い愛の物語が残されています。
側室である力寿と幸せな時間を過ごしていた三河守、大江定基。力寿が子を身ごもったまま亡くなり、その姿に人生の無常を感じた定基は出家し、生涯にわたり力寿の供養を続けた――
その祈りの場所が胎蔵寺です。
哀しさの中に、“母と子”への変わらぬ愛情が感じられるお話だなと思いました。
保母町は私の中学校区でもあります。
中学校では地区名で会話をする機会もあり「保母の子がさぁ〜」という会話を思い出してみると、賑やかな明るさよりも、穏やかで雄大な空気がただよっているイメージが思い浮びました。
その印象を確かめたくて中学の友人に聞いてみると「自然がたくさんで落ち着いた場所だよ」とすぐに返ってきました。
それから町の名前の由来の話を伝えると
畑と田んぼも多くて
新しい人たちは住めなさそうだから、
代々と引き継ぐ歴史ある感じはするね!
と語る友人。うんうん、分かるよ。としっくりくるような気がして、この気持ちを友人と共有できたのは嬉しいなと思う。
「保母」という言葉の由来ははっきりと分かりませんでしたが、“母を保護する”“子を守る”という響きがあり、母として子を宿してから、ずーっと見守っていて、どんなことでも丸ごと包み込むような名前だと私は感じました。

写真は保母町の近くに住む、私の祖父と息子の由来を調べているときにふっと思い出した一場面。家族の愛。そんなイメージです。
■ 挙母町 ― 長い歴史と発展が交差するまち
豊田市にある挙母町は、古くは「衣」と書かれていましたが、江戸時代に「挙母」へと表記が変わりました。
さらに挙母町にある、挙母神社はもともと「子守神社」と呼ばれ、子どもを見守る神様が祀られていた地域です。
「衣」の由来が古事記までさかのぼることを知り、挙母町には想像以上に深い歴史が息づいているのだと驚きました。
現在の挙母町は豊田市の中でも街中にあり、江戸時代には挙母城の城下町として栄えた場所。「車の街」というイメージが強い豊田市ですが、その中心にある挙母には奥ゆかしく静かな歴史が重なっています。現代の発展と古い歴史。その正反対のような魅力がこの地域をより面白くしています。
近くの上挙母町も、かつては挙母町の一部。
当時の挙母町の広がりと栄えがうかがえます。
挙母神社は、長い間子どもたちを見守り、地域を育んできました。その土台があったからこそ、挙母藩はその地に根ざし、古きを大切にしながら新しい活気を取り入れて発展していけた、そんな地域なのだと感じました。

神主さんのお話は愛に溢れていて、心が温かくなったのを思い出しました。
■ 町を調べることは、自分の歴史を辿ることだった
岡崎の保母町の近くで学童期を過ごしてきた私は、きっと地域からたくさんの「愛」を受け取って育ってきたのだと思います。
そして今、豊田市で家族をもち、日々の暮らしを築いている――
それは、今までを大切にしながら、新しい自分の歴史を作っているような感覚があります。まさに、挙母町が育んできている歴史。
町の名前を調べることが、いつの間にか“自分自身の歴史”を見つめる時間になっていました。そして、私を育ててくれた家族や友人に改めて感謝をする時間にもなりました。
母の文字を宿す、土地名のすごさに感服。
































まずは、宿題、ご苦労様でした。
子ども頃、育った町と、今、生きている町と
ふたつの母の歴史を訪ねました。
そう、そして、今、山本さんも、母の歴史をつくっている一人です。
素敵な記事を、ありがとうございます。