お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

あの日、子どもと歌を唄いながら公園をぐるぐる歩いた

もうすぐ東日本大震災から丸7年。

我が家は東京三鷹の団地の4階。
揺れは棚から物が落ちる程度だったけど、
それでも初めて地震を怖いと感じた。

小1の上の子は下校途中。
私は3歳半の下の子を連れて
自転車で家に帰る途中だったから
地震の瞬間は家族みんな外出中だった。

大きな揺れに車も人も
ピタリと動きを止め様子を伺っている。

ひと足先に帰った上の子は
余震もあり不安だったらしく
ランドセルだけ置いて外の階段で待っていた。
部屋の中は物が散乱はしてるが
大至急なんとかしなければならない物はない。
それだけ確認して私は子どもを連れて
目の前の公園に避難した。

グラグラ揺れるたび、ジーッと止まって
揺れの大きさを体感する。
そんなことをしてる自分に気づき、
今やれるのは子どもを不安にさせないように
することだと思い直す。

歩けば怖くないよ、と子どもの手を取り
広くはない公園のなかを
「歩こう〜歩こう〜わたしは〜げんき〜♬」
と歌いながらぐるぐる歩き回った。

大きめの揺れの時は歩いていても
足元がグラっとなり内心ヒヤリとするけど、
止まらずに歌い歩く。
一気に遊び気分になれた子どもたちは
楽しそうに笑ってた。

揺れも収まってきて部屋に戻ると
4階だからかまぁいろいろとぶっ飛んでいて驚く。
本当に地震の瞬間に部屋にいなくてよかった。
片付けをしつつテレビを付けて
そこで初めて震源地と震度を知った。

画面には
広い畑?に津波がスピードをそのままに迫るところ。
都心の高層ビルがありえないくらいに揺れてる姿。
その後も報道で見る自然の圧倒的なパワーと
容赦ない姿は恐ろしいものだった。

7年が経ち、上の子は中2になった。
小1の時だよね、
金魚の水が溢れちゃったよね、
と思い出している様子。

すごかったよね、と話せるのは
幸せなことなんだと思う。
今できるのは、備えることと想像することだ。

4件のコメント

沖山さん

もう7年ですね。
あの日、日本中の人々が震えました。

私は娘のところに走りました。

津波は、この世のものとは思えなかった。
そして、原発事故。
日本中を汚染した放射能。

あの日から、たくさんの人たちの考え方、生き方が大きく変わったと思います。

が、時間が立つと、私たちはあの日を遠くに思ってしまう。

今も、津波に流された家族を探している人がいる。

原発事故で、故郷に戻れなかった人。

そして、今も続く、汚染処理。廃炉ヘの道の大変さ。

この国は、どこに向かうのだろうと。

沖山さんの記事を読ませてもらったので、

お母さん大学でも、お母さん大学生のみんなに提案してみます。

311を忘れないためにも

あの日、命を落とした人たちへの祈りを込めて

ありがとう。沖山さん。

素敵な記事を。

藤本さん
震源地とは遠く離れた東京でも
はじめて「自分事」に感じた震災でした。

もうすぐ産まれたはずの命も
産まれて間もなくの命も
その命を守りたかった命も…
なんの区別もなく。

今も苦しみ続けている方を思うと、
記事を書くのをためらい、何度も書き直して…でも
藤本さんのコメントを読んで書いて良かったと思えました。

日本は阪神大震災のころから大きな問題に向き合わざるを得ない社会になったと振り返っています。
色んな思いをそれぞれに抱え込みながらも前に進んでいくのに何を大事にしなければいけないのか・・・
東北の震災で救われた人がいたことも最近知りました。
それは精神病院に自分の人生を放り込まれてしまった人がいたということ。
誰かの犠牲を背追いながら、それをなかったことにしていく社会であってはなりません。
社会の苦しみはじわじわと自分にも降り注いでくるのだということを、災害の旅に胸が痛みます。

池田さん
被災された方その一人ひとりの
人生が狂ってしまった災害の裏には
きっと想像も出来ないたくさんの悲しみがある、
と思うと簡単にはかける言葉も見つかりません。

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