お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

安達太良の山々に抱かれ 福島の人々と生きて

「あー、なんてきれいな雪山だろう」職場に向かう車中、思わずつぶやきました。この時期、野山は唐突に色彩を溢れさせ、一斉に早着替えをします。その艶やかな姿は、控えめな福島の人柄とは対照的にも思えます。

福岡から福島に来て8年。小6と小3の息子たちは竹藪に基地をつくったり、木枝でつくった弓矢を飛ばしたり。冬はそりやかまくら…、そして休日も、夫に連れられてキャンプに山登り、スキーに温泉と、福島の溢れる恵みをいただいています。

引っ越してきた頃…震災2年目の福島市には原発事故の影が色濃く残っていました。放射線除染のトラックが行き交い、天気予報は線量測定値を報告、スーパーの野菜には線量データが貼られていました。子どもと歩いていると「たまにはお外に出なくちゃね」と、声をかけられました。道端の落ち葉や小石を拾うわが子に、不安からくるイライラで怒鳴ってしまったことも度々。話し相手もなく、ここにいることが正しいのかもわからずに震え上がっていたのです。

それでも時間とともに規制は緩和され、私自身も園の先生や友だち親子などいろんな出会いの中でだんだんと心がほぐれていきました。科学的なデータ以上に人とのつながりが、私に安心をくれたのだと思います。

そんな不安も薄れていたある日、パート先でふと震災時の話になりました。当時お母さんたちは、雨の日に学校で傘を畳むボランティアをしていたそうです。放射線が含まれているかもしれない雨水から子どもを守るために。「そんなことあったね~」と明るく話す同僚。でもその目からいきなり涙が。すると皆も一斉にぼろぼろと涙を流し…。「あれ? なんで泣いてるんだろう」と泣き笑い。

今では皆フツーに元気に暮らしている福島のお母さんたち。でも実は、はち切れそうな不安を抱えてきた過去があり、それは今もひっそりと在り続け、でも大切な人々との新たな日々を重ねていっているのです。

たまの福岡への帰省後、すっかすかの福島駅のホームに降り立ち、ほっとする私。目前の安達太良の山々はただ黙ってそこに在り、福島が不安だったかつての私も、福島を誇りに思っている今の私をも変わらず受け入れ、包んでくれています。