お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

3.11 母であることを忘れ、娘に戻った日

10年前のこの日、横浜もものすごい揺れに襲われた。
私は職場にいて、入ってくる情報に対応していた。
テレビではヘリからの中継が凄まじい映像を映し出していた。
当時働いていた職場は千葉から宮城県の主要港数カ所に拠点があり、
まずは全員の安否確認に追われた。

でも私は、大型のトラックが押し流される映像を見た瞬間から、
父のことばかりを考えていた。
もちろん電話は通じなかった。

父は配送トラックの運転手だったので、まさかと思いながらも、
地元の映像が不安を煽った。
映っていた場所は、父の仕事場である仙台と実家のある町を結ぶ道路だったからだ。
何も手につかなくなった。呆然としていた。

夫が職場に来てくれた。
「とりあえず子どもたちを迎えに行ってくれる?もしかしたら歩いて帰ることになるかもしれない」
と言われ、我に返った。

子どもたち。
忘れていたわけではないと言ったら大嘘だ。
忘れていた。
子育て中の職員は帰宅許可が出たので急いで駐車場へ。
スタジアムの横の道路には道を遮るように大きな木が倒れていた。
父のことも頭から離れないが、
混雑しパニックとなった町をみて、起きた災害の大きさを実感するとともに、
子どもたちが無事であるかどうかを知る術のないことにもどかしさを感じていた。
無事だと勝手に思い込んでいた。
母親失格だ。
預け先への連絡方法、避難場所、全く把握していなかった。

大丈夫だろう。

バイアスがかかった根拠のない楽観的思考。
自分のことがつくづく嫌になった。

渋滞もしていて、到着したのはすっかり日が落ちたあと。
保育園チームの息子2人は部屋の中心に集められ、いつもと変わらない笑顔で私を待っていた。
ああ、よかった。よかった、よかった。

その後、お姉ちゃんがいるはずの学童へ。
わが家の近所は真っ暗だった。停電していた。
まずは小学校の体育館で待たされていたのだが、保護者がどんどん迎えに来て、
うちの子は児童の中で最後2人になったとのこと。
それから学童の先生が迎えに来てくれて、真っ暗な学童でじっと待っていたとのこと。
ああ、よかった。でも本当にごめんなさい。

あなたたちのお母さんは、お母さんであることを忘れて、
自分自身のお父さんやお母さんのことを考えていました。

真っ暗で寒い家。
ガスは使えたのでお湯を沸かしてペットボトルに入れて温まった。
非常食も準備していなかったので、お菓子やパンをとりあえず食べた。
夜9時過ぎ。
夫が歩いて帰宅した。
棚が空っぽになったコンビニを梯子し、かろうじておにぎりを買ってきてくれた。

「お父さんと連絡取れたよ」

ずっと電話をかけ続けてくれたらしい。
そっかそっか、よかった…
子どもたちを抱えながら、涙が止まらなかった。

失われたいのちがたくさんある。
さまざまな思いが巡る。
家族というものを、
改めて考えた日。

いつかこの記事を読んで、
あいつ最悪な母親やなって、
子どもたちが笑ってくれないかな。
とりあえず今は、まだ、忘れていたことは言わないでおく。


陸前高田の海(2018年3.11撮影)

16件のコメント

>いつかこの記事を読んで、あいつ最悪な母親やなって、
子どもたちが笑ってくれないかな。

いつかではなく、いつも、笑っていると思うけど。

お父さん思いの娘でいられて、よかったじゃない。

あいつ最悪だと、今は呆れていると思います。
もう少し経ったら、笑ってくれまいかと…

父は、震災のあった翌年に突然この世からいなくなってしまいました。
思えば父になんでも相談してきたので、
今でも、話がしたいなぁと、思ったりします。

子どもたちを抱えながら涙が止まらなかった。
そんな植地さんの文章に、涙が出ました。
私はあの日、幼稚園で働いていて。
お迎えに来る保護者の方がお子さんをぎゅっと抱きしめる姿に、よかった。と一つ一つ思っていました。

なんとか仕事を終え帰宅し、弟と合流。
都内で卒業式だった妹。母は参列。そしてそのまま帰宅困難に。
海外赴任だった父が国際電話で家族を繋いでくれたが、みんなもう充電がないから…と。連絡が途絶え。
翌日、母と妹がそれぞれ帰ってきた時はほっとしてわんわん泣きました。それから少しの間、母と弟妹たちとみんなで寝ていたのは秘密です…!
あの時の気持ちを忘れず、毎日過ごさないといけないと感じます。

先生には本当に感謝しました!
だって、普段信頼しているからこそ、あの日、忘れたんだと思うの(言い訳かな)。
安心して預けることができていたから。
家族がバラバラになるなんて、想像もしないで暮らしていたよね。
そうですね、忘れない、時々思い出す、そして、大切にする。

九州は少し揺れた程度だったと思います。
ただただ、あの映像に衝撃を受けたことは今でも忘れられません。
当事者だったら、どれほどかと思います。
ほんと、植地さんの子どもたちなら、きっと笑い飛ばしてくれるよ。

植地さんの記事、その当時の気持ちが手にとるようにわかり、私もペンを持ちました。
あの日は不安な時間が沢山あり過ぎましたね。
あの日を忘れずに、風化させないようにしなきゃですね。

田端さんの記事も読みました!
本当に普段は忘れてしまっていることが、ちょっとしたことで鮮明に浮かんできます。
さあ、またここからがんばって暮らしていきたいと思います。

今日、いつもおせわになっているクロボーの社長さんともこの日のことを話しました。
ことがあこったときにどう対応できるだろうか…
私も子どもたちのことを考えきれるだろうか…
生きている意味を真剣に考え、過ごしていかないとなと思っています。

母である前に一人の子供でもあるんですよね
みんな。誰かの子供だったから
親を思う気持ち、不安になる気持ち。
そこから子供のことを忘れてしまう
それだけの緊急事態だったから

とにかく無事でよかった。
あの時わたしは独身だったけど
子供を抱えていたらどれだけ怖く
どれだけ不安だったろうと
思います、

あの地震を子供とともに体験した
植地さんは、大変だったと思うけど
とても強いなと思いました。

まさか。
そう思っちゃうのね。
お母さんはみんな同じ強いと思うけど、
経験とともに、豊かになるね。
だから、悲しいことも、うれしいことも、人生が豊かになることだと思えば、
毎日それを与えてくれる子育ては、本当に素晴らしなって、感じます。

朝から涙ぐみながら読みました。
そう、私たちにもお母さんお父さんがいる!
一瞬で娘に戻ってしまう気持ち、とってもよく分かります。
私は当時はまだ独身で、子供3人いる今だったら…
植地さんと同じように、親を想い、子を想い…
と過ごしていたんだろうなと思うと、胸が締め付けられます。
こうやって、想いを形に残すこと。
それだけでも東北を想いできることの一つなのかなぁ。
私も書きたいと思います。

普段は忘れがちなのですが、やっぱりまだまだ心の中の特別な部分を占めていますよね。
時にはいろいろ想いを整理して、
これからの生き方とか、暮らし方にももしかしたら関わってくるのかもしれないです。
あの日のマザーリポートがあるとしたら…想像するだけでつらいですね。でも、読みたいとも思う。

涙が出ました。
私はあの時お台場で勤務してました。まだ独身だったので、心配したのは東北にいた職員のこと。親がいたらそれはもう心配で心配でたまらなかったと思います。
職員のことでさえ、命は無事だったと教えてもらって安堵しました。
お子さん達も、おじいちゃんを心配したお母さんの気持ち、分かりますよね。忘れられていたのは、お母さんらしいと思うでしょうか(笑)
トトロ幼稚舎の青組では、防災ゲームと称して、「今津波が来たらどこへ逃げる?」「〇〇がきたらどこへ逃げる?」と、山の上へ逃げたりしています。園児はもちろん、未就園児と母達も一緒に。常に、今いる場所で自分自身での身の守り方を考える。子ども達もそれができるように。あの時のことを教訓に過ごしていきたいです。

あの時は、本当にすっかり忘れていた自分にびっくりしました。
きっとほかのお母さんたちは、真っ先に学校に電話したのだろうな、とか、
保育園に向かったんだろうなって思いました。
今は、もし、何か大きな地震があったら、とにかく生き抜けと伝えています。
自分でなんとかしてって伝えています。

お台場にいたのね。帰宅が大変だったのでは。
いろいろ忘れていることありますね、防災グッズだって持ち歩いていたこともあったのに。
今一度、しっかりと、ですね!

コメントを残す

ABOUT US
植地宏美
お母さん大学横浜支局。 お母さん業界新聞横浜版編集長(2019.10〜2021.12)。 長女21歳、長男17歳、次男15歳。 お母さん大学をものすごく、楽しんでいます。 結果、 お母さんをものすごく、楽しんでいます。