お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

もらった愛情を受け継いでいきます

3月1日朗らかな天気

ネイルサロンの帰りに母からの着信に気づき折り返す。

「おばあちゃん、亡くなったよ。」

「うそ…!」

にわかに信じがたい事実を聞いて、呑気にネイルなんてしていた自分を責めた。

3ヵ月前から要介護施設で暮らしていた祖母の様態が悪くなっていた。

1ヵ月前に最後の看取りをしてくれる病院に転院したばかりだった。

転院先の病院では、相部屋で色々な人々の声が聞こえることで

おばあちゃんは少し元気になったように見えていた矢先の訃報だった。

震える手で冷静になろうと運転する私の視界は涙で揺れていた。

 

 

おばあちゃんは私の“第二の母”だった。

2歳から祖母のが働く保育園に通い、最後の保育時間まで園にいて、一緒に帰宅していた。

小学校から高校までは毎日のおやつは祖母の家で準備してもらい食べていた。

大学生になっては終電に乗りそこなった私を車で迎えに来てくれた。

なんなら、私が結婚してもだ!

夫と喧嘩してアパートを飛び出した私。

母からは「結婚したのに、何で戻ってきてるのよ!」と怒られるが目に見えていたから、

祖母の家に泊まった。

泣きながら寝る私の肩をトントンと叩いてくれた。

まるで小さい孫を寝かせるように。

いつも私の話を穏やかな笑顔で聞いてくれ、無条件に私を肯定してくれる存在だった。

 

そして、祖母の生きざまも好きだった。

高校時代に祖父に一目ぼれして結婚した祖母。

亭主関白を絵にかいたような祖父の面倒をみるのは本当に大変だったろうに、

暴君な祖父に何をされても、文句ひとつ言わない祖母だったらしい。

そして、保育士として働きながら2人の子どもを育てあげた。

良妻賢母だった祖母。

しかし、晩年になって祖母は教えてくれた。

祖父に対して「悔しいときは、お風呂のバスタオルを(洗わず)昨日のにしていたから。いいのよ。」と、いたずらな笑顔で言っていた。

そんなことしてたのか~!と孫の私はツッコんだ。

実は強かな女性だったのだ。

元気者だった祖父は70歳でがんを患った。

祖母は4か月に渡っての闘病生活を毎日ホスピスに通い祖父を支えた。

私は行ける時は祖母の車に乗って一緒に行っていた。

なんなら、実の息子(父)よりたくさんおじいちゃんに会っていた。

最後に看取った祖母の言葉は「後悔せんように最後までやりきったけんね。さびしくないよ。」

という気丈な言葉だった。

一緒に安らかに眠る祖父との最後の一夜を私も一緒に祖母と過ごした。

つらいことも静かに耐え、だれも責めず叱らず、温かく見守る祖母の強さや優しさが大好きだった。

 

あぁ、本当に私は祖母とたくさんの時間を過ごした。

そして、女性として母としての生き方を学んだ。

祖母との思い出を振り返るだけで、心が温かくなるのである。

 

 

 

 

祖母に最後に会った日、

涙しながら祖母の手を握る私をみて

祖母は認知症が進み誰が誰だが分からなくなっていたにも関わらず、

一緒に涙を流してくれていた。

「今まで本当にありがとうね、おばあちゃん」と何度も伝えた。

「私も頑張るからね」と言うと、うなずいてくれた。

涙しながら私を見る澄み切った目は昔とまったく一緒だった。

 

 

 

 

 

私にできることは何だろうか

 

 

 

 

 

それは、

 

やはり「もらった愛情を受け継いでいくこと」だろう。

自分がもらった愛情を、優しさを、自分の家族や関わった人たちに返していくことだろう。

 

祖母の大きな愛に気づけたから

これからのバトンを受け取ったから

愛情はめぐっていくものだ

それは、きっと世代を超えてめぐっていく

 

 

まみこおばあちゃん へ。

あなたが戦中厳しい時代の最中生まれ育ち、

愛する人と出会い、

暴君に耐えながらも最後まで添い遂げ、

働きながら2人の子どもを立派に育て、

今や孫も4人、ひ孫も6人いますよ。

これは、まみこおばあちゃんの努力の賜物です。

私は、おばあちゃんのような人になれるかまだ自信はありませんが、

あなたからもらった大きな大きな愛を次の世代に必ず、必ず、返していきます。

まみこおばあちゃん、どうか天国でゆっくりおやすみください。

今まで ほんとうに ありがとう。

孫の ゆき より