お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

3月11日14時46分、母たちの祈り

東日本大震災から7年が経ちました。

震災関連死も含めた死者・行方不明者は、2万2000人を超えています。
もう7年なのか、まだ7年なのか…。

7年前の今日、東日本大震災が起きました。
津波が来て、原発事故が起きました。

復興はまだまだで、「想定外」という言葉では
決して片づけられない現実がある中で、確実に力となるもの。

それは、人々のつながりと笑顔。
何より、「未来」と呼ぶべき、子どもたちの存在ではないでしょうか。

311を経験した、お母さんたちの発信です。

「あの日、子どもと歌いながら、公園をぐるぐる歩いた」

もうすぐ東日本大震災から丸7年。

我が家は東京三鷹の団地の4階。
揺れは棚から物が落ちる程度だったけど、
それでも初めて地震を怖いと感じた。

小1の上の子は下校途中。
私は3歳半の下の子を連れて
自転車で家に帰る途中だったから
地震の瞬間は家族みんな外出中だった。

大きな揺れに車も人も
ピタリと動きを止め様子を伺っている。

ひと足先に帰った上の子は
余震もあり不安だったらしく
ランドセルだけ置いて外の階段で待っていた。
部屋の中は物が散乱はしてるが
大至急なんとかしなければならない物はない。
それだけ確認して私は子どもを連れて
目の前の公園に避難した。

グラグラ揺れるたび、ジーッと止まって
揺れの大きさを体感する。
そんなことをしてる自分に気づき、
今やれるのは子どもを不安にさせないように
することだと思い直す。

歩けば怖くないよ、と子どもの手を取り
広くはない公園のなかを
「歩こう〜歩こう〜わたしは〜げんき〜♬」
と歌いながらぐるぐる歩き回った。

大きめの揺れの時は歩いていても
足元がグラっとなり内心ヒヤリとするけど、
止まらずに歌い歩く。
一気に遊び気分になれた子どもたちは
楽しそうに笑ってた。

揺れも収まってきて部屋に戻ると
4階だからかまぁいろいろとぶっ飛んでいて驚く。
本当に地震の瞬間に部屋にいなくてよかった。
片付けをしつつテレビを付けて
そこで初めて震源地と震度を知った。

画面には
広い畑?に津波がスピードをそのままに迫るところ。
都心の高層ビルがありえないくらいに揺れてる姿。
その後も報道で見る自然の圧倒的なパワーと
容赦ない姿は恐ろしいものだった。

7年が経ち、上の子は中2になった。
小1の時だよね、
金魚の水が溢れちゃったよね、
と思い出している様子。

すごかったよね、と話せるのは
幸せなことなんだと思う。
今できるのは、備えることと想像することだ。

沖山親枝

 

「地球」

こたつでお絵描きをする息子。

大好きなドラゴンボールの絵。
丁寧に、よく考えて描かれてある。
そして、紙の一番上に

「これ、ちきゅう」
と言って、地球と星をたくさん描いた。

たったこれだけのこと。

この何気ない日常の一コマが
何てありがたくて、幸せなんだろう~。
と感じて涙が出そうになり、息子の頭をなでた。

この普通の日常が・・・
3秒後に大きな地震が来るとわかっていたら・・・
可愛い我が子を失う現実があるとしたら・・・

「当たり前」は何ひとつない。

「当たり前」の反対語が、「有難し」。
だからこそ、「ありがとう」。

この瞬間瞬間の
子どもとの悲喜こもごも
すべてに
感謝しようと思う。

息子が描いたこの地球のように
地球を汚すことなく
私たちの手で荒らすことなく
地球に住む一員として
息子たちに、子どもたちに
住みやすい環境を、社会を
引き継いでいきたい。

近藤美和子

 

 

「いま、私にできること」

7年前のあの地震の瞬間、私は東京にいた。甥っ子、妹と一緒に。

動物園がある大きな公園の、とてつもない大木がうなり、
地面がひび割れたのを昨日のことのように思い出す。

地球の怒りを感じた。

怖くて怖くて仕方なかった。
とにかく近くの妹の自宅まで走り続けた。

テレビを見て震えあがり、
元夫は職場から7時間ぐらい歩いて帰宅。

は妹の家にその日は泊めてもらった。

そのことがきっかけとなり、妹たちは家族で福岡に引っ越しをし、
はそのことだけがきっかけではないが、
地元ではなく、近しい存在がほとんどいない東京に対する不安が募っていったのかもしれない。

災害がある際に必要なのは、つながりだとは思う。
助け合える仲間が周りにどれだけいるのか。

つながり続けていくために、今がやっていることは、
紛れもなく正しいことではないか、と思う。

地域と一体になること。
つながりを作ること。
人と人をつなぐこと。

これがいま、私にできること。

安藤裕子

 

 

「私を動かしたもの」

あの日、私は体調を崩して自宅で休んでいた。
勤め先の学童へ、もう少ししたら出勤できるかな…と、
お得意の無理やりをしようとしていた。

その時襲った大きな揺れ。

真っ先に浮かんだのは、これから学童保育へ帰ってくる子どもたち。

気付いたら家を出て、気付いたら信号の止まった道で
タクシーに乗り込んでいた。

職場の安全を確認して、すぐに学校へ子どもたちを迎えに行くと、
おびえて泣く子や、どんな様子だったか話す子、
休みだったお母さんは、車で学童まで来て、カーラジオを付けてくれた。

子どもたちの無事を確認したあとに浮かんだのは、この子たちの保護者の顔。

どうか無事でいてほしい。

何日もこの子たちと過ごすかな…と思っていたのに、
次々とお母さんやお父さんが迎えに来る。当たり前だけどすごい。

でも、停電してしまった地域だったため、どんどん少なくなる人数。

主任だったため、最後まで残りますと、同僚には帰ってもらい、
何人かの子と一緒に、ソファーを部屋の真ん中に置いて、
毛布をかけておしゃべりをした。

自分の家族の無事を確認しながら、
真っ暗な学童で、月明かりと懐中電灯の明かりの中、
みんなでくっついて過ごした。

そこへ、『代わりますから、どうぞ帰ってください』と、
近所に住むお母さんが申し出てくれた。

あれから7年。

地震が何よりも怖い私が、
何一つ戸惑わず、行動できたのは
子どもたちの無事をただ祈る気持ちだった。

まるで神様にスッと背中を押されたような。

あの日、肩を寄せ合って過ごした子どもたちが
今日も同じ空の下健やかに過ごしている。

何年経っても、鮮明に覚えているあの日。

いつか、大きくなった子ども達に再び会うときに、
この話をしてあげたい。

生かされている。それを感じなさいと。

吉村優

 

 

「311と私」

2011年3月11日から
自分の中の何かが変わりました。

衝撃が大きくて、考えて感じて動いて、グルグルグルグル。。。
答えはこれ、と見つからないまま

ただただ311を迎えるたびに思いを言葉にしている自分がいました。
時に慌ただしさの中で言葉にすることもできなかった自分もいました。

素直に感じたまま言葉にしていく先に見えてくるもの。
311が教えてくれる大きな大きなもの。

過去の記事から感じるいろいろなこと。
今日この日に振り返ってみました。

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2012年3月11日
「あれから一年」

2011年3月11日
今までに経験したことのない
出来事が・・・。

地震
津波
原発

たくさんの命
あたたかな絆

事実と真実
無知な自分を知るとともに
できることから動いてみた一年。

まだ一年
もう一年
それぞれの表現。

でもでも
3月11日に感じた
いろんな想いは
ことば、カタチにして
いつまでも
伝えていきたい。

今できること
心こめて。

明るい未来を
想いながら・・・。

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2013年3月11日
「311星空プロジェクト」

2013年3月11日
20時46分。

東日本大震災から
2年目の夜。

「311星空プロジェクト」に参加。

明かりを消し、ロウソクを灯して語りました。

今の気持ち、これからのこと。

急に暗くなった部屋。
子どもたちは、自然にぬいぐるみを抱っこし
丸くなりました。

ロウソクの灯は少しずつ
辺りをやわらかく包んでくれました。

あの日の夜も
一つの部屋にみんなで集まって過ごしていたね。
いつまた揺れがくるか、ドギドキしながら。
朝がくるのがとても長く感じた日。

あれから知ったこと。
地震がある日本にたくさんの原子力発電所があること。
放射性物質が遺伝子に影響を与えること。
いろいろなことが絡み合って
この現実があること。

その他にもたくさん。
こうしたことを
子どもたちに話さなくてはならないことが
なんとも辛く悲しい。

「どうしてゲンパツはなくならないの?」
「このままいったら、どうなるの?」

子どもたちの問い。
言葉に詰まる自分。

でもあれから、
今まで見えなかった大切なものが見えてきたり、このままではよくないと気づく人が増えてきたり、
思いを言葉に行動にする流れが生まれたり、確実に何かが動き始めたと…。

たくさんの人のいのち。
つながってつながってきたいのち。
そしてつないでいくいのち。

ここに
今生かされている意味を考えながら
動いていきたい。

そう思いながら電気をつけると、やけに眩しく
目を閉じたい明るさにハッとしました。

明るすぎる…。
こんなにも明るい世界にいたとは。

それと同時に
これからの時代を生きていくうえで
絶対に必要な

「感じる」
をたくさん教えてもらった夜。

進むべき道が
明るく希望に満ちたものでありますように…。

祈り願う私の横には
スヤスヤと眠る子どもたちがいました。

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2014年 3月11日
「あれから3年」

2011年3月11日。

忘れられない日。
あれから3年。

今年も子どもたちと一緒に
ろうそくの灯りの中過ごした。

あの日のことを語り
あの日から思うことを語り
「いま」を生きることを語った。

大切にしたい思い
守っていきたいこと
伝えていきたい気持ち。

ろうそくの灯りは
全てを包み込むように
温かくやさしく灯っていた。

あの日からの月日を
いつまでもいつまでも忘れないように…。

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2015年3月11日
「4年目の311」

あの日から4年。
忘れもしない揺れ。
余震の恐怖。
不安な日々。

命とは
自然とは
絆とは
いろいろ考えた。

たくさんの悲しみ
憤り
無力感。

いろいろな感情が
ぐちゃぐちゃに入り混ざっていた。

状況を
受け入れたくない自分がいた。
信じたくない自分がいた。
乗り越えたい自分もいた。

自分ができることは?
答えがなかなか見つからなかった。

あれから4年。
こうして発信することが
今の自分にできる一つのこと。

あの日を忘れないように。
前を向いて進んでいくために。
次の世代に繋いでいくために。。。

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2016年3月11日
「5年目の祈り」

あれから5年。

いのち
繋がり

希望

現実
想い
行動
悲しみ
苦しみ
絶望

いろいろなことが蘇り
いろいろなことが思い浮かび
祈らずにはいられない。

これまでと
これからと

気づき
つながり
動いていくために。。。

村本聖子

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ABOUT US
編集部 青柳 真美お母さん大学本部
お母さん大学事務局兼お母さん業界新聞本部編集部。お母さん業界新聞編集チーフ。みそまるマスター。みそソムリエ。宅地建物取引士。仕事は、お母さんを笑顔にすることと、味噌を伝えること。具体的には、編集・企画・営業・イベント…。家族と仕事以外に、人生に欠かせないもの…車/映画/本/旅/甘いもの。息子(30歳)、孫2人。