お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

10月号宿題◆特集「ふるさとを思う」

9月号の新聞が届くか、届かないかですが、
早くも、10月号の宿題です。

今年の夏休みは、コロナによる短縮・自粛のため、
帰省できなかった、帰省しなかった人も多いことでしょう。

両親や友人たちに会えない寂しさ、
ふるさとに帰れない寂しさもひとしおではないでしょうか。

そこで10月号の特集では、
そんなふるさとへの思いを、
みんなでシェア・共有しあえたら、と思っています。

ふるさと=生まれ育ったまち といっても
海や山、たんぼや畑など、自然豊かな場所に限らず
住宅や商店が立ち並ぶ、都会がふるさとの人もいるでしょう。

ふるさとと聞いて蘇る記憶や風景、懐かしい顔、声、シーン
ふるさとと聞いて思うこと、連想すること、
ふるさとの思い出やエピソード、
ふるさと自慢でもけっこうです。自由に書いてみてください。

写真がある人は、一緒に投稿してください。
今の写真も、懐かしい写真も歓迎です。

★書き方は自由ですが、字数は、100~600字程度でお願いします。

★新聞は本名発信です。

★回答は、この記事の
・コメント欄に記入
・投稿記事にし、このコメント欄に投稿記事をリンクする
・直メールで、info@30ans.com へ。
いずれかの方法でお願いします。

その場合は
(1)お母さんの名前
(2)ケータイ(日中連絡がとれる番号、アドレス)を記し、
タイトルは「ふるさと/名前」でお願いします。

★締め切りは、9月7日(月)
では、どうぞよろしくお願いします!

★MJ30はコチラ↓

10月号宿題◆MJ30「お母さんの憂鬱」

19件のコメント

小学3年生まで住んでいた、父親の実家がふるさとです。
田植えや稲刈り後の稲干しのお手伝いをしたり、のどかに過ごしていました。彼岸花が裏の川に満開で。なかなかいけないからこそ、秋になると思い出す、ふるさとの風景です。

生まれも育ちも横須賀市なので、ふるさとに今も住んでいます。

横須賀市はトンネルと坂の街と言われています。
どんな道路も、点々とトンネルがあるのが普通だと思っていたので、大人になってから他の街のトンネルの少なさ(というか私の街の多さ)に気付きました。
そして、いくつも坂を登らないと家には着かなかった幼少期でした。
雨が降るだけでも滑り落ちそうなほど急な坂を、よく母がおしゃべりしながら手を引いてくれたのを覚えています。

私が生まれたのは静岡県の三島市。高校卒業まで三島で暮らし、水のおいしい所で成長してきました。
進学に伴い、名古屋市での一人暮らしが始まり、4年住んだ名古屋も、今となっては私の懐かしき場所になっています。
その間に実家は田方郡韮山町(現 伊豆の国市)に転居。私は名古屋での生活の後、静岡市に引っ越し今に至っているため、たまに帰る程度でしたが、玄関先から見える富士山は大好きでした。
そして昨年、伊豆の国市内ではあるものの、また実家が転居し、引っ越す度に田舎度が高くなって、今の実家は周りに山しかなく、普通のテレビアンテナでは電波を受信できないほど田舎に。静岡では体験できないような田舎生活を楽しめるので、娘たちにとってもいいふるさとになっていると思います。
その土地にずっと住んでいると、ふるさと感をあまり感じられませんが、離れて分かる、その土地の良さ。
私にとっては、三島も名古屋も伊豆の国市も、どれもふるさとだと思っています。ふるさとって1つじゃなきゃダメってことはないですよね?(笑)

生まれ育った大牟田市に、またいまも住んでいます。
引越し回数多くてすいません。(笑)
大牟田市→長崎市2回→大牟田市→久留米市2回→東京都新宿区→東京都小平市→大牟田市へ。
ふるさとってここ。
昔はなんとなく大嫌いだった、中途半端に田舎な福岡県大牟田市。
田舎なら田舎で、畑とか山とかがいい(笑)
アスファルトなのに田舎(笑)
だけど、こんなにこんなに、大牟田でどうやって生きていけば楽しいのか、考えた日々は今回が初めて。
大牟田は人が熱い。交通の便がよく、都会にも田舎にも、温泉にも、川遊びにも、福岡にも熊本にも1時間で行ける!
子育てしながら大牟田がやっと住みよくなってきた最近。
ふるさとを想う。
わたしの故郷は間違いなく福岡県大牟田市。

ふるさとというと、田園風景みたいなイメージだけど、私が育ったのは都会寄りで下町の尼崎です。
ダウンタウンの出身地と言えば分かる方が多いでしょうか。
子どもの時から、友達が夏休みは「田舎に帰る」という言葉に憧れたけど、うちはおばあちゃんちはお隣の西宮。
(甲子園球場があるとこです。)
全然、田舎感ないし。

大人になってから、ある子どもの時の遊びや住んでたところの話を聞いて、川で沈下橋から飛び込んで遊んだとか、自然一杯なところの話を聞いたらそういう思い出があるってちょっとうらやましい。

でも、尼崎をうまいこと表現した人がいて、「都会の田舎」というのです。
確かに電話番号は「06」で大阪に近いし、都会寄り。
でも、人情がある街なんです。
私が住んでた地元は商店街もあって、子どもの時は商店街の鶏肉屋さんには、本物の鶏が飼われてたり、熊の手があったり。おもちゃ屋さんには看板代わりに等身大のウルトラマンとかが屋根の上にお出ましだったり。
スーパーでも買い物に行ったら、顔を覚えてくれていて、「子どもはどうしたん?」とか声をかけてくれたり。
自然はあんまりないけど、その代わり地域のイベントがかなり多い。
子どもが生まれてからは、掲示板を見てどこのイベント行こうか同じ日でもはしごするほど。そういうのが普通かと思ってたけど、引っ越して、あんなに活気があるのって尼崎特有だったのかと知りました。
距離は近いけど、離れると寂しい~。尼崎、いいとこです。

私の故郷は、父母の故郷である熊本だ。私は熊本人の家庭であったため、熊本の食文化や人との付き合い方も外の佐賀とは異なるなと感じることが多い。まず、醤油のこだわりが強い。女の人が強い。肉体的にも精神的にも強く、家族に尽くす。馬刺しを大量に食べる。最後に、一族への想いが強い。お互いを思いやり、助け合う父母の背中を見て育った私は、熊本に住んだことはないけど、私の故郷は熊本だ。

私の故郷は北海道で小学校5年生まで過ごし、父の転勤で大阪に来て今ではすっかり大阪のおばちゃんです 北海道での日々は今の私を支えてくれる根っこのようなもの 
季節ごとの思い出 親戚と過ごした時間 昨年亡くなった父の思い出と共に懐かしてくちょっと寂しい気持ちで思い出してます 

私の故郷は、やっぱり生まれ育った広島。
高校卒業して家を出るまでずっと広島で過ごした。
すごーく田舎でもないけど、すごーく都会でもなくて、
小学校から帰るときは、お姉ちゃんと二人で田んぼの田植えをぼーっと眺めたり
川に葉っぱを投げ入れて、それを追いかけながら帰ったり。
引っ越ししてからは、学校から家までが近くなったので寄り道しがいがなかったけど
中学校へ上がると、また友達とダラダラと寄り道しながら帰ってたっけな。

広島の自慢は数知れず!
お好み焼き、牡蠣、小イワシ、穴子、柑橘類、タコ、宮島、厳島神社、原爆ドーム、カープ・・・
あげればキリがないけれど、どれも本当に好きなものばかり。
でも、きっと故郷の良さに気付いたのは、広島を一度離れたから。
外に出てみて、広島の人の地元への愛情深さや、見慣れた景色の貴重さに驚いた。

広島は75年前、人類史上初めて原子爆弾が落ちた町。
幸か不幸か、それで世界中の人に認識される町となった。
海外に行っても「どこから来たの?」と聞かれて「Hiroshimaだよ」と答えると
「ああ・・・本当に大変だったね」「とてもよく知っているよ」と様々な国の人が寄り添ってくれた。

広島東洋カープも、原子爆弾投下からたった4年後に球団創設。
当時はまだ闇市が続いており、荒れた青少年の心や市民の生活の拠り所を・・・と願い創設された。
お金も練習場もなく、何年も弱小球団で解散の危機に襲われながらも、
生活の楽しみだった、生きる希望だった球団を市民全体が募金などで支え、今に至る。
私のおじいちゃんも毎日ラジオ中継を聞いては一喜一憂し、
でもそういう娯楽が、戦後の焼け野原だった広島の町を救ってきたのではないかと思う。
そういう背景や歴史を背負っているから、やっぱり私もカープが大好き。
広島&原子爆弾&カープは切っても切れない関係。

私は広島に生まれ育った以上、原子爆弾の恐ろしさや戦争の恐ろしさを伝えていく使命を背負っていると勝手に思っている。
今は離れた福岡に住んでいるが、ここに住んでていてもできる事はある。
人は過去を忘れる生き物。
でも決して忘れてはいけないものはあります。
過去から学んだことを、犠牲になった方たちの教えを、息子たちに教え伝えていこうと思っています。
まだまだ故郷から学ぶことばかり!

私のふるさと。田んぼかな。
実家が百姓だったので、小さい頃に田植えの手伝いをしたことがぼんやりと記憶にあります。大きくなる頃には、営農組合みたいになって、家族が手伝うことはなくなったのですが、米の苗を家の外に並べてたりトラクターがあったりしたのが懐かしい。また、小学校も中学校も田んぼの真ん中にあったので、通学路は田んぼ道。見晴らしが良すぎるほどの一本道。田植え期の水田も、秋の田んぼも、好きな景色です。

遅くなりましたが…

実家は千葉県なのですが、両親共に九州出身(父が北九州、母が福岡)で、父方の祖父母と同居していたこともあり、家の中の会話が標準語に九州弁が混じっていました。思えば食事も九州寄りだったのかもしれません。
住んだことはないけれど、九州に愛着があります。

でも、わたしにとって、ふるさと=お仏壇の線香の匂い=安心するでした。場所というより匂いなんですよね。

私も横浜、横須賀、東京、横須賀と、引っ越しを重ねてきました。
加えて、両親は鹿児島、沖縄。
たまにしか行けない場所でも小さな頃から通っている場所に、どこかホッとする。
出身は?と言われると、えーっと。。
神奈川県かな?という感じですが、
どの場所も比べられないほどイイ所なので、
私の故郷は色んなところにあるんだと思ってます。

遅くなってすみません。
私は北海道登別市で生まれ育ち、18歳まで過ごしました。小学校の校庭前は牧場で、春から秋にかけては牛が放牧されているのを眺めながら過ごし、冬は友達と雪合戦やそり遊びをして過ごした子供時代。何もない場所だけれど、自然豊かな良い環境で過ごせていたのだと思います。
18歳から22歳までは、進学のため札幌市で過ごしました。北大キャンパスの銀杏並木、ススキノ歓楽街の華やかな街並み、豊平川の花火大会…。住んでいたのはたった4年間ですが、沢山の楽しい思い出が出来ました。
静岡に暮らし始めて、毎年冬に雪かきや屋根の雪下ろし作業をしない生活にようやく少し慣れてきました。毎日の除雪作業は本当に大変なので、それが無い生活は楽で快適だけど、時々寂しくなる事もあります。コロナが落ち着いたら、子供達をふるさとに連れて行って雪と触れ合う遊びをさせてあげたいなと思っています。

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ABOUT US
編集部 青柳 真美お母さん大学本部
お母さん大学事務局兼お母さん業界新聞本部編集部。お母さん業界新聞編集チーフ。みそまるマスター。みそソムリエ。宅地建物取引士。仕事は、お母さんを笑顔にすることと、味噌を伝えること。具体的には、編集・企画・営業・イベント…。家族と仕事以外に、人生に欠かせないもの…車/映画/本/旅/甘いもの。息子(30歳)、孫2人。